今夜もどこかで、大阪や東京の若者が天井を見つめながら、あの空虚感に包まれ、「これが全てなのだろうか」と思い悩んでいる。無視することに慣れてしまった身体の緊張が痛みとなって現れる。本当の自分の声を何年も発していない。自分のものとは思えない人生を演じ続け、心身ともに疲れ果てている。
そんな彼らのために、神々が人の身体に降り立ち、聖なる舞が偽りを焼き尽くし、大地そのものが祭壇となり、身体が神殿となる実践が、静かに待っている。
神々に捧げる古代の神楽の中には、ある瞬間がある。踊り手が「演じる」ことをやめ、器となる。神聖が降臨し、人と聖なるものの境界が消える。
それを見ていた、長い間自分の身体に「今ここ」を感じられなかった20歳の若者が、ふと気づく。「戻る道がある。帰る場所がある。」
これこそが、表章弘明氏と「創生神楽」ムーブメントが、生命力を失いかけた世代に差し出しているものだ。
彼らが置き去りにした身体
1日5時間のスクリーンタイムが若者に何をもたらすのか。それは、彼らを自分自身の肉体から追い出してしまう。意識はただフィードを流し見する目と、無限にスクロールする親指だけに還元され、通知の不安で神経が常に高ぶる。身体はただスマホを運ぶだけのものになる。
その一方で、身体は叫んでいる。肩に溜まった緊張。浅い呼吸。慢性的で低度な「切断感」は、不安や抑うつ、「何か大切なものが失われている」という漠然とした感覚として現れる。
日本の若者たちは、こうしたデジタル時代の普遍的な「身体からの追放」に加え、さらに鋭い問題に直面している。それは「本音」の抑圧を求める文化だ。本音(honne)と建前(tatemae)の分裂は、身体を「衣装」や「演技」、守るべき「嘘」に変えてしまう。日本の10代の満足度が62%しかないのも無理はない。
悲劇なのは、こうした若者たちが「身体性」に飢えている一方で、日本文化には世界有数の洗練された聖なる身体実践の技法が存在していることだ。その「薬」は、千年以上も前からずっと待ち続けている。
忘れられた扉
神楽。その語源は「神座(かむくら)」——神が宿る場所。
この古代の実践において、神聖は決して遠く抽象的なものではない。神は降臨する。精密な動き、聖なる音楽、儀式空間を通じて、人と神の境界は透過的になる。踊り手は清められ、不安や達成、演技の自我を超えた「大いなるもの」の器となる。
表章弘明氏は、神道の儀礼、修験道の山岳修行、古武道の型に残る古代の動きや作法を何十年もかけて研究した。そこで見出したのは、意識を身体に取り戻すための一貫した覚醒の体系だった。デジタルによる分断は、この実践の前では持ちこたえられない。
彼が創り出した「創生神楽」は、神楽の本質的なエネルギーを現代の実践者にも届く形で伝えている。これが彼の「ネオ・ジャパネスク」哲学——過去から学び、未来を創る。博物館的保存ではなく、生きた伝承だ。
聖なる舞がもたらすもの
若者が神楽を学び始めると、何かが修復され始める。
身体が自分自身を思い出す。神楽の一つひとつの所作には明確な意図が込められている。手はこう動かす。足はここで大地に触れる。意識が完全でなければ型は崩れる。デジタル生活が生む散漫で分裂した意識の入り込む余地はない。「今ここ」にいるか、いないか。その「在ること」を求める実践が、「在ること」を生み出す。
本当の自分が現れる。日本社会の中で若者は常に「見せ方」を管理し、本音を仮面の奥に隠して生きている。しかし、神楽はこれを完全に逆転させる。演者は透明な器——聖なるものが通り抜けるための「空」にならなければならない。仮面は隠すものではなく、解放するものとなる。儀式の型の奥で、全てを感じ、全てを通すことが許される。
孤独が溶ける。創生神楽の公演は、イタリアのオペラハウス、スペインの修道院、ローマの教皇庁研究所など、世界中の聖地で行われてきた。表氏のビジョンは明確にグローバルだ。「地球と世界の幸福を願う心は、誰の心にも多少なりとも存在する」。この実践に加わる若者は、単なるダンスを学ぶのではない。系譜、コミュニティ、地球規模の祈りの運動に参加するのだ。かつて確固たるものに思えた孤独が、少しずつ薄れていく。
身体が聖なる大地となる。おそらく最も根本的なのは、神楽が「神聖は神社や寺だけに宿るのではない」と教えることだ。神座(かむくら)——神が宿る場所は、実践者自身の身体にもなりうる。自分の身体を嫌い、外的な成果だけに価値を見出すよう教えられてきた若者たちにとって、これは革命的な「薬」だ。あなたの身体は解決すべき問題ではない。それ自体が聖なる空間なのだ。
山が呼んでいる
神楽の先に、表氏が修行した修験道——山の修行の道——は、さらに深い癒しを指し示す。
修験者は聖なる山に登り、滝に打たれ、野山で眠り、自然と交わることで、自分と自然の境界が溶けていく。都市の密集と人工的な環境に溺れる現代の日本の若者たちに、この伝統はもう一つの可能性をささやく。「自然はあなたと切り離されたものではない。山も森も川も、あなたの仲間だ。スクリーンから離れ、生きた風景に身を置くこと自体が、最高度の精神修行なのだ」と。
山の中では、無限スクロールはできない。滝の前で建前を演じることもできない。自然はあなたの成績には興味がない。ただ、ありのままのあなたを受け入れてくれる。
招待状
表章弘明氏のビジョンは、「祈りを通じて人類の意識を変革する」ことに他ならない。受け身の希望としての祈りではなく、「動く祈り」としての祈り——動く者を変え、世界に波及する聖なる舞だ。
「祈りを通じて人類の意識を変えることで、次世代のために平和で豊かな地球社会を創造します」と彼は記す。
日本の若者たちに差し出されているのは、問題からの逃避ではなく「変容」だ。現代を捨てるのではなく、古代の叡智と統合すること。自分の文化を否定するのではなく、その最も深い贈り物を取り戻すこと。
神楽殿は用意されている。太鼓は待っている。古の者たちが、子どもたちを「ふるさと」へ呼び戻している。
この世代は、その呼びかけに応えるだろうか?

